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感情はただのノイズじゃない:論理派が第三のゲームで見出した補完のかたち

 

「わかるよ、って言われても進まない」と感じていた頃

感情重視の人たちとの対話に、どこかモヤモヤを感じていた。
話の着地点が見えない。思考の構造が読み取れない。
将棋やチェスのように、目的地に向かって駒を進める感覚がない。
──まるで、ルールのないカードゲームに巻き込まれているような気分だった。

「新しいドレスを買ったら穴が開いててショックだったの」
「わかる、私も新しい服を着た日に醤油をこぼして、最悪だった」
……で?と、思考が立ち止まる。

このやり取りは、どこへ向かっているんだろう?
そんな疑問が、対話の手綱を離してしまう原因になっていた。


感情は“見せ合う”ものだった?

あるとき気づいたことがある。
感情重視の人たちは、「問題を解決するために感情を語る」のではなく、
「感情そのものを共有する」ことに価値を置いているのかもしれないということだ。

言い換えれば、それは “感情のカードを見せ合うゲーム”
自分が何を感じたのか。相手がどんな思いを持ったのか。
それを差し出し、照らし合うことが目的のような対話。

論理派の私にとって、それは初めて見る種類のゲームだった。


第三のゲーム:論理と感情が出会う場所

けれど、ただの見せ合いでは終われない。
**論理派が求めているのは、「構造」と「意味」**だ。

そこで生まれたのが、新しい発想。
感情を“カード”と見なして扱うというアナロジー

  • 感情重視の人は、「こんなカードがあるよ」と提示してくれる。

  • 論理重視の人は、「そのカードはどんな条件で発動したのか?」「そのカードの効果は何だったのか?」と仕組みに目を向ける。

このとき、ただの“共感の応酬”が、「感情を読み解くターン制のゲーム」に変わる。
お互いの持つカードに意味を与えながら、世界の構造を少しずつ解き明かしていく。
これが、**“第三のゲーム”**の正体だ。


補完関係ではなく、協働関係へ

このゲームは単なる役割分担ではない。
お互いが、自分に足りない視点を取り入れようとしていることに本質がある。

  • 感情重視派は、「なぜ自分がそう感じたのか?」を考えるようになる。

  • 論理重視派は、「感情を扱う言葉」や「その人にとっての意味」に目を向けるようになる。

それは、“感情”と“論理”の二項対立ではなく、
「論理で感情を理解する」プロセスと、「感情で論理を動かす」ダイナミズムの共存だ。


おわりに

第三のゲームは、勝ち負けを競うものではない。
相手のカードに“意味”を与え、自分のカードに“深み”を見出すことで、
対話そのものが豊かになっていく。

論理だけでは届かない。感情だけでも進まない。
その交差点に立ち、共にプレイすることで見えてくる風景がある。

──わたしたちは、ちがうゲームをしていたんじゃない。
同じ場で、ルールを共につくるところから始める必要があっただけなのだ。