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対話がすれ違うのは、思考の"進法"が違うから

 

対話がすれ違うのは、思考の"進法"が違うから


1+1=10。

そう聞いて、あなたはどう思うだろうか? おそらく多くの人は、そんなのは間違いだと感じるはずだ。 「1+1は2だろう? そんな基本的なことも分からないのか」と。

でも、もしこの人が“2進法”で考えていたとしたらどうだろう?

この式は決して間違っていない。1+1=10(2進法)であり、 その桁上がりによって“下の位”は0になる。 つまり「1+1=10」は、別の前提においては正しい。

私たちは日常のなかで、このような前提の違いを見落としたまま、 「話が通じない」「理解されない」と感じる対話を繰り返している。 とくに、社会のあり方や政治、価値観に関する議論になると、このズレはより深刻だ。

民主主義を語るという"異質な言語"の導入

日本社会で「民主主義」や「建設的な対話」の重要性を説くことは、 多くの場合、サッカーのルールを知らない野球チームの中で、 いきなり「オフサイドとは何か」を語るようなものである。

聞いている側からすれば「なんの話をしているのか分からない」。 語っている側は「なぜ分からないのかが分からない」。

ここに横たわるのは、“知識の差”ではなく“思考の前提”の違いだ。

対話が成り立たないのは、語彙や論点の問題ではなく、 「世界をどう捉え、どうルールづけているか」の違いがあるから。

10進法の世界では1+1は2だ。 2進法の世界では1+1は10だ。

民主主義的な思考では「異なる意見をぶつけ合うことで、より良い解を探る」のが前提だが、 日本的な“和”の文化では「意見の対立そのものが秩序を乱す」と感じられてしまう。

この前提の食い違いに気づかないまま、 「なぜ対話が成り立たないのか」と悩んでも、噛み合うはずがない。

思考の進法を見直すところから始めよう

だからこそ、私たちに必要なのは、 いきなり価値観をぶつけ合うことではなく、 「自分たちは何進法で世界を見ているのか?」を確かめ合うことだ。

1+1=2という思考に染まっていれば、1+1=10という人は間違って見える。 でも、その「間違い」に見える主張には、別の文法があるかもしれない。

まずはその可能性に目を向けること。

そのうえで、互いの“進法”を共有し、 違いを前提にしながら対話を始めること。

そこに、ほんとうの意味での“建設的な対話”の土台が生まれる。

終わりに:理解とは翻訳の営みである

私たちはつい、「相手に分からせよう」として話しがちだ。 でも、本当に必要なのは、“翻訳”の努力なのだと思う。

相手の言葉の背後にある、見えない文法や、計算のルール。 それを丁寧に見つけ、言葉を置き換え、意味を橋渡しすること。

理解とは、ただの受信ではなく、翻訳の営みであり、 翻訳には前提への敬意と、異質なものへの好奇心が不可欠だ。

異なる進法の存在を知り、それを認め合うこと。

それが、この社会を少しずつ変えていく、 静かだけれど確かなスタートになるのだと思う。