自分を育てるためのブログ

自分自身が後で読み返して価値を感じられるような内容を目指します

対話が始まらない理由は、誰かの“沈黙”かもしれない

 

 


「面倒くさい人」って、誰のこと?

 

何も言い返さないのは、相手が「正しいことを言っていて返す言葉がない」のではなく、シンプルに相手が「面倒くさい人」だからです。

このフレーズに出会ったとき、正直、胸の奥がざらついた。
ああ、そうか。
私はこれまで、何度「面倒くさい人」扱いされてきたんだろう──そんな思いがよぎったから。

 

もちろん、誰かを追い詰めたいわけじゃない。
ただ、私は「ちゃんと話がしたかった」だけだった。
怒鳴った覚えもない。けれど、「声が大きい」と言われる。
感情的になってるつもりはなかった。だけど、「なんか怖い」と言われる。

 

そして、相手は静かに黙りこみ、話は終わる。
「あなたの言うこと、正しいんだけど…」と言われることもある。
でもそれって、本当に“正しい”からじゃなくて、「反論するのが面倒」だからじゃないか。
そういう言葉が、実はシャットアウトのサインなんじゃないかって、最近ようやく気づいた。

 

たとえるなら──
私は“将棋をしよう”って呼びかけてるのに、相手は“今は野球してるんで”と返す。
たしかにそれは、対話ですらない。
そもそもゲームが違う。ルールが違う。ゴールが違う。

 

でも、私はそれでも思う。
だからこそ、対話が必要なんじゃないか?って。
話し合いのルールを、まず一緒に作ろうよって。

 

だけど現実は、
「正しさ」より「めんどくさくないこと」が優先される場面が多い。
深く掘るより、浅く流した方が関係は壊れにくい。
そんな空気の中で、“面倒くさい人”と見なされることは、
つまり「もうこれ以上、近づきたくない人」になることを意味してしまう。

 

だからこそ、私は今、自分に問いかける。

面倒くさくて、悪いか?

 

たぶん私は、少し面倒くさい人間なのかもしれない。
でも、私は言葉で考える。言葉でつながりたい。
対話が成立する世界を夢見るのは、そんなにおかしなことだろうか。

 

何も言い返さない人を「大人」とする風潮に、
そろそろ小さな異議を唱えてもいいんじゃないか。

だって、「何も言い返さない」のではなく、
「もう言っても無駄だ」と思われてるなら──
それは“対話の終焉”でしかないから。

 

言葉が通じる世界を、私はまだ信じている。
それは理想論かもしれない。
でも、理想がなければ、現実はどこへ向かえばいいんだろう。

 

もし、この記事を読んでくれたあなたが
ちょっとでも「面倒くさい側」に共感してくれたなら──
どうか、一緒に問い続けてほしい。

「それって、本当に“面倒くさい”だけ?」って。