「それ、国のせい?」——他責論という静かな依存
最近、ある動画で経済学者・飯田泰之氏が語っていた言葉が、ずっと頭から離れません。
「最近の日本社会は、何でも“他人のせい”にしすぎていないか?」
この問いは、私たちの深層にある“依存のかたち”を静かに暴いてきます。飯田氏が指摘する「他責論」とは、個人が抱える問題や選択の結果を、政府や社会に委ねてしまう思考のこと。言い換えれば、「自分の人生のハンドルを、誰かに握らせてしまう」ことです。
たとえば、ホストに狂う女性の話。
借金まみれになった彼女に対して、「国がなんとかすべきだ」という声が上がる。もちろん、制度や支援が必要な場面もある。でも、飯田氏はこう言います。
「自分で考えて、自分で行動するようにしてほしい。」
この言葉は冷たくも聞こえるかもしれません。でも、そこには“自分の人生を自分で選ぶ”という、切実な願いが込められているように感じます。
あるいは、ストロング系飲料の健康被害。
「焼酎ポカリ割り」なんて危険な飲み方が流行り、健康を害する人が出てくると、「政府が規制すべきだ」という声が上がる。でも、規制しても似たようなものは作られてしまう。結局、選ぶのは“自分”なのです。
飯田氏は、こうした個人的な選択にまで「国がなんとかすべきだ」と言ってしまう風潮に、違和感を覚えています。
対比されるのは、アメリカの“わけのわからない楽観”。
「どうにかなるさ」と笑って、どこかで誰かが守ってくれると信じる。これはこれで危うさもあるけれど、少なくとも“自分でなんとかする”という前提がある。
日本では、何か問題が起こるとすぐに「政府が悪い」「制度が足りない」と言ってしまう。それは、もしかすると「自分で選ぶ痛み」から逃げたいだけなのかもしれません。
自己責任論 vs 他責論——その間にある“問い”
かつて「自己責任論」が強く語られた時代がありました。今はその反動なのか、「他責論」が静かに広がっている。飯田氏はこの流れに警鐘を鳴らしています。
でも、私は思うのです。
自己責任も、他責論も、どちらか一方に偏ると、誰かを切り捨てることになる。大切なのは、「どこまでが自分の責任で、どこからが社会の責任なのか」を問い続けること。その問いの中にこそ、私たちの“自律”があるのではないでしょうか。
最後に——あなたは、誰に人生を委ねていますか?
この問いは、私自身にも向けられています。何かうまくいかないとき、「誰かのせい」にしていないか。選択の痛みから逃げていないか。
飯田氏の言葉は、そんな私たちに静かに語りかけてきます。
「自分で考えて、自分で選んで、自分で生きる。」
それは、孤独で、怖くて、でも、確かに“自分の人生”を生きるということ。
あなたは、どう思いますか?