- Ⅰ|「小学生でもわかる」があふれている世界
- Ⅱ|わかったはずなのに、不安が消えない理由
- Ⅲ|「教える文章」が肩代わりしているもの
- Ⅳ|「一緒に考る文章」とは何か
- Ⅴ|需要と望ましさのあいだにある溝
- Ⅵ|それでも「一緒に考る文章」を書く理由
- Ⅶ|教えることと、考えることは両立できるのか
- Ⅷ|この文章も、途中である
「教える文章」から「一緒に考る文章」へ
――わかった気持ちと、考え続ける力のあいだで
Ⅰ|「小学生でもわかる」があふれている世界
「小学生でもわかる〇〇」
「3分で理解」
「これだけ覚えればOK」
ネットを開くと、こうした言葉が並んでいる。
YouTubeでもブログでも、分かりやすさは強い武器だ。
実際、わかりやすく説明してもらえるのは助かる。
知らないことに出会ったとき、最初の入口としてはとても親切だ。
私自身も、たくさん救われてきた。
だからまず言っておきたい。
「教える文章」そのものが悪いわけではない。
問題は、私たちがいつの間にか、
「教えてもらう文章」だけで世界を理解しようとしていることだ。
Ⅱ|わかったはずなのに、不安が消えない理由
分かりやすい説明を読んだ。
動画も最後まで見た。
その場では「なるほど」と思った。
それなのに、少し状況が変わると不安になる。
「この場合はどうだっけ?」
「誰かの解説がないと判断できない」
こんな経験はないだろうか。
これは理解力が足りないからではない。
記憶力の問題でもない。
考える経験が、そこに含まれていなかっただけだ。
答えを知ることと、考えられることは、似ているようで別物だ。
Ⅲ|「教える文章」が肩代わりしているもの
教える文章は、たくさんのものを引き取ってくれる。
・どこが大事かを決めてくれる
・何が正しいかを示してくれる
・間違える不安を先に消してくれる
だから楽だし、早い。
けれど同時に、こうもなる。
判断する責任を、自分で持たなくなる。
それは怠けではない。
忙しく、不安の多い社会では、とても自然な反応だ。
ただ、その状態が続くと、
「自分で考えていい」という感覚が、少しずつ薄れていく。
Ⅳ|「一緒に考る文章」とは何か
「一緒に考る文章」は、親切ではない。
読むのに時間がかかる。
途中で立ち止まる。
結論がすぐには出ない。
だから人気が出にくい。
でも、この文章はこう考えている。
読む人は、考えられる存在だ。
答えを先に渡さないのは、意地悪だからではない。
信じているからだ。
わからなさや違和感を、そのまま置く。
考え途中の形で、差し出す。
それが「一緒に考る文章」だ。
Ⅴ|需要と望ましさのあいだにある溝
正直に言うと、
「一緒に考る文章」より
「分かりやすく教える文章」のほうが、需要は大きい。
SNSは速さを求める。
短く、強く、はっきりした言葉が広がる。
これは人間の性質でもある。
楽をしたい。
失敗したくない。
すぐ安心したい。
だから、需要と望ましさのあいだには、どうしても溝ができる。
問題は、その溝があることではない。
溝があることを、見ないふりをすることだ。
Ⅵ|それでも「一緒に考る文章」を書く理由
社会を変えたい、というより、
自分が考えるのをやめたくない。
誰かの答えをなぞるだけで、
「分かった気持ち」だけを積み重ねていくのは、
どこか息苦しい。
一緒に考る文章を書くのは、
勝つためでも、評価されるためでもない。
考える時間を、奪われないためだ。
Ⅶ|教えることと、考えることは両立できるのか
ここで誤解されたくない。
教えることと、考えることは、敵ではない。
分かりやすさは大切だ。
言葉を噛み砕く努力も必要だ。
ただし、
全部を先回りして説明しすぎると、考える場所が消える。
どこまで教え、どこから一緒に立ち止まるか。
その配分を意識することが、大事になる。
Ⅷ|この文章も、途中である
この記事も、完成した答えではない。
「一緒に考る」ための、仮の地図だ。
読んでいて引っかかったところがあれば、
それは失敗ではない。
出発点だ。
結論を持ち帰らなくていい。
考え続ける感覚だけ、持ち帰ってもらえたら十分だ。
教える文章から、
一緒に考る文章へ。
それは方向転換ではなく、
歩き方を少し変えることなのだと思う。